昭和四十三年十二月二十一日 朝の御理解
御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
あらゆる角度から、この御理解は頂いております。ですから、今日はこの御理解の心と言うものを聞いて頂きたいと思います。「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」。勿論この雨風と言うのは、人生の雨風、難儀と言ったような事も含まれていると思うのです。自然の雨風それもある。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。ここで私が思うのは、雨が降る中に、風が吹く中にえらいと思うておった。又は辛いと思うておった。けれどもそこを辛抱さしてもらいよったら、辛抱の徳と言うか、段々辛抱が身に付いてきておると思われるように、それが、辛抱が辛抱でなくなってきた。
それが楽しゅうなってきた。そこに私は、値打ちがあると思うのです。信心さして頂いとりゃ、必ずあるところの雨風と言うものをです。いつも辛抱しとかなならんと言う事ではね。ひとつも信心が上達しとらん。信心が身に付いて行きよらん、と思わないけません。ですから、ここのところは、泣く泣くでも辛抱しいしいにと、三代様が言うておられる。思う事もなくなり、欲しいものもなくなりとおっしゃるように、その次に有難とうて有難とうてと、その辛抱さして頂いてきた事がです。
有難とうて有難とうてと、その雨も風も、有難いものになってこなければ、徳を受けて行きよるとは言えない。朝参りが、朝参りの徳と言うものが身に付いてきたら、初めの間は、もう本当に眠うて眠うて、若先生じゃないけれども。金光様の信心とは眠いもんだと、言うなら、ひとつの喝破である。と分からしてもろうて、段々そこんところの修行さして頂きよったら、その朝起きをすると言う事が、朝参りをすると言う事が、眠いもんだではなくて、それが有難いもんだと言う事に変っていかなければ、徳を受けていきよるとは言えない。
初めの間は、何か楽しい、初めの間は何か尻に火がついたようにして、参らなければならない。そうでもしなければおられない、と言う時には、段々おかげを頂いておったけれども。あれも願う事もない。これもおかげ頂いたと言う事になると。それがしるしいような事になってくるようでは、その時の辛抱はひとつも徳になっとらんと言う事になる。段々おかげを受けてくると、いよいよ眠いもんだと言う事では、これはおかしいと思う。身に徳を受けていく修行と言うものがです。感じられてこなければ、ここんところの値打ちがない。
一生が眠い眠いで終ったら、どういう事になるでしょう。それじゃ誰でも真似の出来ん事になってくるのです。それではついて来きらんです。昨日、熊谷さんが参って来てお届けされるのです。こうして朝参りをさして頂くようになって十何年になる。朝は、もう七十からのおばあさんですが、四時前に必ずお水を頂かれる。そして四時の御祈念を頂き、一番のバスでああして、毎日参って来られる訳ですが。そういう事が、もう有難いものになってきだしたのである。ところがです。もうちょっと間違うと、たまがるごとお気付けを頂く。
これも私の妹ですが、毎日、夜の御祈念に親子で参って来る。そしてお届けするのです。今朝はもう恐れ入りました。椛目のお広前を、ああして預からして頂くようになって、神様の前を荒すような事があってはならんと、いつも心掛けさして頂いておる。親子は朝頂かんのだけれども、御神飯だけは炊かせて頂く。ところが昨日に限って、御神飯を炊かなかった。何かで、帰ってから、お供えしょうと思うたんでしょう。そしたら、あの高い階段から転げ落ちた。「神様すいません」と言いながら、転げ落ちて、そして御神飯を炊かせて頂いた、と言うのである。
ですから皆さんが、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。その身に徳を受けていく道すがらと言うか、まあだ眠たい。まあだしるしい。けれどもそれを、ちょっとでも怠ると神様がお気付けを下さるような、信心が生き生きと出来ていきよらなです。これが有難いものになっていかんです。私は信心修行をひとつひとつ成就していくとは、そういう事だと思う。その修行が有難いものに仕上げていかねばならん。金光様とは眠いもんだと言う事が一生続いたら、どういう事になります。
身に徳を受ける修行じゃとおっしゃるから、身に徳を受けていかねばならん。初めの間は、そこんところが泣く泣く辛抱しいしいにであった。けれども思う事もなくなり欲しいものもなくなり、有難とうて有難とうてと、言う信心辛抱の徳が成就していきよらなければ駄目なんだ。例えばここの修行生の光昭でも末永さんでも、一日中、私が見る時にはいつも眠っとります。裏におりゃ裏で眠っとる。事務所におりゃ事務所で眠っとる。お広前におる時なんか、もう絶対眠っとる。
有難そう、拝みよるとかと思うたら、もう眠っとる。まあ言うならば、信心とは眠いもんだと言う貴いところを通っていきよるのだと思うのです。だから決してそれは困った事じゃない。そこを辛抱していきよる事が有難い。それがやはり修行なんだ。けれども、その修行がです。そんなら何年間も続くなら、これは大変なんですよ。それが身に付く徳になっていかなきゃ。だから、その徳が身に付いていきよる事が分からして頂く。神様が、この辛抱を受けて下さりよるなあと、自分で感じられるようなです。ところがです。間違うたらピシピシとお気付けを頂けるから有難い。
神様ちゃそこが有難い。そこを何遍もしだごだにする。お気付け頂いとっても、お気付けと感ぜずにです。いい加減にしていく。今度は、もうお気付けも頂かんごとなる。そこが有難いとじゃもんねと。私、ゆうべ妹と話した事です。身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。だからこれが身に徳を受けていきよるな、と言うものを感じていかなならん。十日間なら十日間だけ朝参りをした。やっぱり信心ちゃ眠かもんじゃあるなと。これを繰り返し繰り返ししたんでは、いつ迄たっても信心ちゃ眠いもんだに終ってしまう。そこんところを少しは倦怠が起ってくる事もある。
スランプ状態の時もある。そこを言うなら、今ここの修行生の方達のようにです。それこそ眠り倒れるごとあるけれども。そこを、辛抱していきよる事が貴い。そのいったあかつきのところを、楽しみに思う。だからそこんところを、いい加減にしたんでは、金光様の信心ちゃ眠いもんだと言う事になってしまうのです。「いかに有難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃ」。心静かに、じーっと御祈念をする。大祓もあげない。静かに静かに御祈念しござると思うたら、ちゃんと手の中に頭突っ込んで寝てござる。
これじゃ神様に通いませんよねえ。静かに拝みよっても、そういう意味合いに於て、腹の底から大祓をあげにゃいけんです。眠かっても、その眠かっが吹っ飛ぶように、一生懸命大祓をあげにゃいかんです。それはわざわざ節をつけたりせんでも、そこんところを一生懸命やって行くうちにです。御祈念の有難さが身に付いてくるようになり、御祈念の徳が身に付いてくるようになり、静かに静かに一時間でも、じーっと心の中に思うただけでも、神様が受けて下さりよる事が分かってくる。そういう事になってくると眠られない。そういう事になった時初めて、節をつけたり、柏手をせんでも、いいようになったり、大祓もいらんようになるのです。
初めからそこんところをいきよると、やり損なう。これは、私の事ですけれども。四時の御祈念では柏手も打ちません。柏手も打ちませんけれども、柏手打ったと同じ働きを神様が見せて下さる。もうそこから、神様との交流が始まる。自分で一生懸命、パァーンと柏手打って、神様がお扉開いて下さったと、言うようなそれこそ、すがすがしいと言うか、何とも言えん音色の柏手が打てた時に、神様がギーッと扉を開けて下さるような感じが有難いのである。だから、この音を非常に研究する人が多い。そういう稽古も又、必要だと思うのです。
まるきり、忍び手のような柏手する人がある。そして、その先なんだ。忍び手でもよかりゃ打たんでもええと言うのは。だから皆さんは、私の真似じゃいかん。大きい音はさせんでも、神には聞こえておる事が、こちらに響き返ってくる。おかげを受けて初めて、それでいいのである。皆さんどうでもひとつ大祓を腹の底からあげる稽古をしなければいけません。自分が先唱しておるようなつもりで、柏手でも稽古しなきゃいけません。よい音色が出るようになります。このよい音色に自分が聞き《ほ》れるのである。
そして神様が扉を開けて下さったごたる気がする。それが有難い。その先に、神前に座れば、もう神様と交流が始まると言うようにです。出来ていくおかげを頂く為にも、その過程として、信心とは眠いもんだと言う過程を一遍通らしてもらい。堂々と大祓をあげさしてもらい。本当にやっぱりあの人は、プロだなと思われるような柏手の音を身につけなならん。そしてそれがいつ迄も、それで形に留まってはならん。そして段々小さい音でもよい。いや柏手打たんでもよい。大祓あげんでもよいと言うような、稽古を積んでいかにゃいけんと思う。
でないと、いかに有難そうに柏手を打っても、大祓をあげても、神に嘘を言うも同然じゃと言う事になってくる。神に嘘を言うも同然じゃと言うような柏手であったり、大祓であっちゃならんと言う事。「人にものを言う通りに拝め」。拝まして頂いた事に対して、ものを言うた事に対して、神様が、また人にものを言うようにです。それを聞きとれる位にゃならにゃつまらん。人にものを言うように頼め。そんなら神様も、また人にもの言うように神様が、それに対して受け答えして下さるような、実感が受けれるようにならなきゃならん。
そしてここで改めて思う事。御神訓の中に、「信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ」「祈りて霊験のない時はこれぞ不思議なる事ぞ」と仰せられるけれども。毎日毎日が、不思議で不思議でたまらんと言うような毎日が、おかげの中に浸らにゃ駄目なんですよ。「信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ」と仰せられるが、毎日毎日が不思議で不思議でたまらんと言う毎日。そういう実感がですね、頂ける事の為にこの六十八節が、本当のひとつのマスターが出来なならんと思うのです。
人にもの言うように拝ましてもらう頼ましてもらう事に対して、神様が人にもの言うように、それに受けて答えて下さると言う事。初めの間はつろうてつろうて、よう泣きましたがとおっしゃる。初めの間は、雨風の時は、もうしるしゅうてこたえじゃった。今日だん御無礼しょうかと言う日だんあったけれども。今頃は、雨やら風やらがかえって、張り合いのある有難いものになってきた。身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。身に徳を受けていきよるしるしなんだ。ところがここのところを変にですねえ。何か一生懸命の時には、それが出来たけれども。
もう今頃は出来んと言うのならね。結局身に徳を受ける修行になってなかったと言う事になるのです。ですから、そこのところがしるしい事でもしるしゅうない、有難うなってくると言うところ迄が、私は、ひとつの修行の仕上げだと思う。ここんところをひとつ皆さん頂いて頂きたい。その代わりそこんところをさして頂きよりますと、ちょっと、疎かな事があっても、神様がお気付けを下さる位のもんをです。感じれるようなおかげを頂きたい。無理に大きい声をあげたり、無理に大きい柏手を打つ事はいらんのだけれど。その柏手の研究もさしてもらう。腹の底から大祓をあげさしてもろうてです。
そこに私は神様に通うものを発見したら。そこから小さい声でも聞いて下さるんだなあと言う体験。これは実を言うたら、柏手でも打たんでいいんだなあ、と分からして頂く体験。そこから柏手は小さうなってもよい。大祓は小さい声でもよい。いやあげんでもよいと言うところになってくるのです。人にものを言うように頼め。人にもの言うように拝める。ですから、人にもの言うように御返事下さる。教祖様の場合なんか、どうでしょうか。それこそ岡山の在の言葉をもって願われたに違いない。
だから神様もやっぱり岡山の田舎の言葉で話しておられるでしょうが。この辺が信心の有難い。私どんが九州弁でお話すると、九州弁で答えて下さる。この辺に教祖の人にもの言う通りに拝めと言うところがある。人にもの言う通りに拝んだら、人にもの言う通り、神様が受け答えして下さる。そして結論として申しましたように、「信心して、霊験のあるを、不思議とは言うまじきものぞ」「祈りて霊験のない時は、これぞ不思議なる事」で。
どんなに繰り返し繰り返し人にもの言うように拝みよっても、受け答えもないごとあるなら、それこそ不思議な事じゃ、と。これはまあだ、こっちの心掛けが間違うとるんだ。拝み方が悪いんだと言う風に悟らしてもろうて、改め改めして拝んでいく。そしてそこからです、打てば響くように、こちらが思うた事に対して、も神様が御返事を下さるようなです。おかげを頂かせてもらうから、不思議とは言うまじきものぞ、とおっしゃるけれども。日々が不思議で、不思議でたまらんと言う不思議な世界に住む事が出来るのである。今日はこの六十八節は、裏とでも言おうか心とでも言うようなものを聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。